昭和45年3月22日 朝の御理解 テープ№45-044
末永静行
御神誡一、真の道の心得
「信心する人の真の信心なきこと」
せっかく信心をさせて頂くなら、真の信心をさせて頂きたいし、またしなければならいと、というようなものではなくて、ここで厳しく戒めておられると言う事です。ね、せっかく信心をするなら真の信心をせにゃんと、真の信心をさせてもらおうと、まあ、そう言うふうに言うたり思うたりするといったような生易しいものではなくてね、教祖様が、信心するものはね、信心する人の真の信心なきこと、ですから、これはもう、いま、信心する者に対する戒めだと教えおられるのでございますから、教祖の神、真の信心をいよいよ求めに求めていかなければなりません。
なかなか、本当にそれをそこに焦点をおいて信心をさせて頂いておるようでありましても、やはり、それは、間違うてくる。限りなく美しゅうならせて頂く、いゆわる、その、限りなく美しゅうなろうと言う願いがありませんと自分で真の信心を頂いてない、頂いてないとすら、その為に一つ、本気で改まらせて頂こう、ね、言うなら、御教えを頂いて、ここはいけないと言うところは、改めていく、言うならば、垢を落としていく。そして、信心は本心の玉を磨くものぞやと仰るのですから、ねそれをいよいよ改まるところを改まった、垢不浄を落としたと言う事だけではなくて、それによって研きをかけていく、その研きをかけていくと言うことも改まると言うことも、それによって改まる、それによって磨くと言うことになる訳です。
例えば日常生活のそれによる私共が今問題にしておる、難儀に思うておる、ね、その事をもって、例えば難儀を感ずるなら、はぁー自分の改まりが足りんのだと改まっていき、その事を持って、いわば、それを砥石として磨いていこうと、ね、そこから、私は真の信心が本当に真の信心としての光を放つほどしのおかげになっていく。
だいたい、真の信心というのは、これは私が吉井の千足という古賀さんと言う大変熱心な全教的にも有名なおばあさんがおられました。お家は焼鳥でした。そこに、もう十七、八年も参りよったでしょう、ぜひ私に話をきてくれというて一晩泊まりで、ここからも五、六人の方達が一緒に参りましたね、あちらで信心の話をさせていただいたことがありました。それで、私はあちらの娘さんがお茶の先生をなさっておられますから、お茶を出してくださったり、まあ、いろいろおもてなしのつもりで、先生、これは私達の家宝でございますというて、ご八足の上にお祭りしてある一本のセンスを持ってみえまして、私の( )と絶対いうわけなんです、これは当時三代金光様ね、三代金光様にお願いをさせてもらいまして、お書き下げを頂いたもんでございますと、これはこの家の宝でございますというて私に拝観せろというわかなんです、そこで、私、それを開かせて頂きましたら、もうはくせんの真ん中に小さく、小さく、真の信心と書いてある、小さく、小さくと言う事にも意味がありましょうがですね、私はその真の信心と言われてその一口にいわれても、はぁーどう言う事だろうかと私は思うて、目をつぶってからその事を御祈念をさせてもらいよりましたら三代様の、いわゆる、お声でですね、もう本当にそのまま三代金光様のお声で頂いたんですけれども、真の信心とはどう言うことであろうかと私は思て御祈念をさせてもらいよりましたらですね、真の信心とは安心のおかげを受ける事でありますと仰る、真の信心とは安心のおかげを受ける事であります、ですから、これはもう、ギリギリ、いわゆる、真とか真心が昇華すれば、昇華というのは、もう、かねくだかれたというのなくてですね、昇る華と書くでしょうが昇華と、いわゆる、最高のもの、いわゆる、宗教のギリギリのおかげというのは私は宗教によって、いわゆる、安心の生き方、大安心ということの一つにね、安心のおかげを受ける、その安心のおかげなるほどそうだと、もう、ね、どんなに素晴らしい事をいうておってもね、安心のおかげを頂けてないとするなら、まだまだ、真の信心でない事を一つ悟らせてもろうて、ですから、これはもう一番最高の答えですよね。
そこで、私共はその真の信心を求めて、ね、真とは、真の信心とはと言うことに、まあ、なってくるわけです。ね、ですから、せっかくおかげを頂かせて頂くならですね、真の信心をさせてもらおうといったような生易しいことではなくて、金光様の信心をするからにはね、真の信心でなからなければならんと、いわゆる、御神誡の中にあるところから押してそう意味です、ただ真の信心をさせてもらわにゃならんと、思うておると言うような事では出来る事じゃありません。
ですから、様々な私共の日常生活の中から、はぁーお道の信心をさせて頂きよる者がこう言う事でどうするかと、すぐ自分に気がつかせてもらう信心と言うことがだから必要でもあるし、それもまた感じますね、ね、信心させてもらって、ですから、そこに真の信心をちょっとでも、はぁーこれは真を欠いた、真の信心をさせて頂いてもらうこんな事でというところにです、もし違う所に心がとがめておる、ね、それがね、真の信心をしよるとかせにゃんとかというようなことであったら自分の心は育つはずはありませんよ、ね、これでは行きませんでしょうが。
皆さんはここでお取次ぎを願われる時に、皆さんが一生懸命願うておられるのに、私が神様の方ば向いてこげんしてから、聞きよるか聞きよらんか分からんようなことをする事が時々あることに気付かれるでしょうか、先生が一つも自分の言う事、今まで聞きよんなさらん、ね。
私は今日、教祖様のお言葉のそれをひらかさせてもらって、こういうようなところを頂いたんです、これは難波の近藤藤守という先生に、本当の直信の先生がお話なさってますですね、教祖腹立ちの後で笑われたり、教祖様は腹を立てておられる、けれども、すぐその後に笑われてある、御機感に叶わぬ時は、ほっとして人心、人心は少しもなし、方向を向かれたり、ひょっとしてと言う事に注意ばしてみたらいいのですが、これは知らぬフリをすると言うやつ、ね、例えば、真の信心をさせて頂いておる者がです、しかもこの御結界で真にあらざる事を言うたりしておる時に、教祖様は向こうを向かれたっち、ね、そして知らんふりをしておられた、私はそれを頂いてですね、これは私はそれ真似するわけじゃありません、けれども、そういうことがありますよね、または腹を立てられる、けれども、すぐその後に笑われたりとか、ね、腹を立てられて事はおかしく感じられる事でしょうか、やはり人間教祖ですからね、やはり苦しい悲しい、または腹立ちなどない、なかったとはいえなかったと言う事が感じられます。けれども、すぐその後には笑われた。
これも、これは教祖伝にございましてね、当時は金光大神が、金光様のお弟子であって、片岡次郎四郎とか斎藤つるとかという形で金光大神のご神格を受けられた方達がおられた、その斎藤又三郎先生のところでしたでしょうか、そこの、にお参りをした信者が、ある時にお参りをした、そして、ザリガニのお供えを持ってきた、ザリガニと書いてあるけど、どういう感じでしょうかね、今の、例えば小さい海老ということらしいんです、そして、お届けをする時にですね、あちらのほう、いわゆる、あちらの笠岡の金光大神ですね、笠岡の金光大神の所ではやかましいから大きな海老を持っていきますと言う、けどこちらはね、そう言う事を仰らんからこう言う海老を持ってまいりましたと言うてね、そしたら、金光大神が立ち上がれ、そのざるがにを庭にひっ捕まえて庭に投げ捨てられたと、それで金光大神は次にですね、そして、ね、例えそれはこちらがやかましくない、あちらがやかましいと言うても、あちらは自分の弟子だぞと言う意味の事を教えておられる、いわゆる、それを道を間違える筋が違ごうた。心休む、もう心やすだてにですね、信心を間違えたと言う事をまあ教えられたのじゃないでしょうかね、そう言う事です。
ですから、例えば本当に私は教祖様のそれじゃないけれども、私共は例えば今までこう言う事は知らなかった、けれども、なるほど御結界では、なら金光大神のお手代わりをさせて頂いておるのですから、そう言う働きがあるです、自分の人情で行かんでも感情で行かんでも、ね、まあ、昨日、それにやや似たことがあった。
昨日、朝の御祈念の後に佐田さん達御一家がここにお届けをされるんですね、ちょうどその前の日にバイリ先生が、あの庭のバイリ先生が来て下さっておったから、私はお礼に行ってもらおうと、それで、私は知らなかったけど、佐田さんと久富正義さんと古賀信次さんと三人でお礼にいったらしい、まあ、あちらは、まあ、たいへん人( )いろいろ( )自分の書かれたようをですね、皆さんに上げましょうと言うて下さった。本当に、まあ、これも先生にやって下さいと言うて色紙を二枚書いたものをここに持ってくきて、それで、昨日佐田さんが託ってこられるわけです。その当時の事をお届けさせて頂いたら、先生、もうそれこそなんちいうんでしょうかね、以心伝心というでしょうか、もう、とにかく、まあ、いうなら嫌な顔をしたと言う事なんです。夫婦の人達がさぁーそれから心の中に引っかかり出した、おそらく私はね、ここまで来るまでに引っかかっておられたんだと思うんです、ね、例えば、こうして先生が、なら十万なら十万の絵を下さる、その中で三人どれがよかっつかと、私はこれがすいとるこれがすいとるち言うてから、まあ取ったという訳なんです。言うならば、ここに余りの者を二枚もってきとる。なるほど私もあー言う( )なんかは大変好きですけれども、私はそれにはね、好きだけれども、本当に今それが必要、本当にもっと役に立つならばいわんでもぜんぶわったっちゃよか、やぶったっちゃよか、私は本当、ね、私はそれを全然自分でも気がつきませんでしたけれども、御夫婦はそれを気付かれた、ね。
私、昨日、善導寺の霊祭でしたから、いうならお参りをさせて頂いた、帰って、( )帰ってまいりましたら、佐田さんがみえておられます、御祈念が終わったら、実は今朝の事で心に引っかかることがございましてからと言うて自分が頂いておられるのをです、私はかぼちゃとすずめを頂きましたちいう訳だけれども、やはり、その、紙に書いたものと色紙を二枚と、三枚頂いておられるのを持ってみえた、ね、どうもこの頂いておる事が引っかかるとこう言うわけなんです。
どういうことになるでしょうかね、例えば、ここのお礼に三人で行った、それに対してそこに何かを頂いた、ね、それから、自分達のこれは私これがいい、あれがいいというてもらった、そして、まあ、いうなら一番、まあ、なんていうんでしょうかね、素人、まあ、素人じゃ良さを分かるまいと思うような、いうなら、まあ、簡単な絵を二枚、まあ、いうなら、だからその人達にとっては悪かつから二枚残ったわけです、いう、これはバイリ先生からというて持ってきた。まあ、例えばそういうような事がですね、いわゆる、真の信心を日頃求めておられる、しておられるから心に引っかかりだした、だから、そういうひっかかとらん者はひっかかっとらんいっちょん、佐田さんだから引っかかった、ね、そんな事だったですか、しかし、それはあなたのいうこっちゃほんなこっちゃね、私がそれをここに、いうなら持ってきたからと言うてです、なら、私はおそらくはそれをですね、三人なら三人に皆に( )というよりも、私はクジかなんかをしてやって、必ずそれに御理解がついただろうと私は思う。これも前にバイリ先生の所にお礼に行って下さった、前の度に久保山茂さんと宮崎さんと正義さんも行くはずじゃったけど、行けなかって、まあ、二人で行ったんです、その時もやはりこんな物を頂いてまいりましたとこう言うから、それはよかもんを頂いてきたなぁと、いうなら、感ながらにいただかにゃいけんから私はクジを引かした、そして、例えばそれぞれに当たってもらって、その後に頂くその御理解が素晴らしいか、例えば一例を言うと久保山茂さんが鶯がその色紙の真ん中にいちょぽんと書いてあるだけである、それが見事な鶯であった、ね、だいたい久保山の信心は梅の信心と久保山先生の時代にいわれおったが、あんたたちの時代になってから、いわゆる、お父さんのあの信心辛抱梅の華と言うものが欠けた、だから、これは鶯だけばいち、だから、これに梅が実らなければおかげにはならんよ、それこそ、久保山の家の宝のようにしてとってありますだから、ね、今のように例えば以下にバイリさんが上手じゃったっちゃ、その鶯一匹だったらなんちゃないでしょうもん、けれどもその時に頂いた時に御理解を頂いたからです、それを今後久保山のそれは宝物、私がこの頃宅祭りに行った時にはそれをちゃんとそこにお祭りするようにし飾ってあった、ね、久保山にはこれが欠ける、いわゆる、お父さんのあの信心辛抱、梅の花といわれた信心が欠けたんじゃ茂るさんいけんよと、さぁーそれから、なら茂さんもこれは本当だと気付かせて頂いて、朝参りも一つ段々出来るようになってきた。ね。
だから、本当の真と真と言うのはそんなに素晴らしい働きを産み成してくるものですよ。今日も佐田さんがもって見えてから、これは自分がいただかなんじゃろうと言うて、まぁ、かぼちゃの絵が会ったげな、それにキリギリスが止まっておる、なんともいえん絵でした、だからまぁかぼちゃは佐田さん、キリギリスはこれは家内のお前ちいうてから、佐田さんは自分勝手に御理解をつけられたらしいけれどもです、昨日ここへ来てから、そのことに御理解を、もうそげんいっぺんやり底なたって御理解を頂くはずがないです。そーに佐田さんが言うておられます、なるほど、先生が、あの、このおかげの泉にここに、これに書いておられる、神様でも御霊様でも同じ、真心と言うのは一本勝負、やり直し、やり直しは聞きませんち、やり直しはきかんでしょうが、ね、だからその時に真、真をすると言う事はね、もう、いわば、これも、もう、茂るさんと宮崎さんと正義さんにその時にその絵なら絵に対してから本当にそこの宝物にしなければならないほどしのおかげを受けておる、けれどもですね、そこに気がついて詫びに出てくると言うところが素晴らしいです、私はそれを本当に実は実感したんですよ昨日、私は人の絵にそんなことは起こらないけど、その絵を見させて頂きましたら梅雨ぶさが一枚目には簡単に書いてあった、一つには今頃この大座布団の中に小さな赤い花でこうね上がって咲く花がありますよね、このバイリ先生と言う方はあんまりこう、人の目立たない、人の気付かないような花を特にかかれるようですね、その花が書いてあった、ね、それで私みせて頂いておりましたらしきりにそれにサンを書きたいと思った、だから、隅にちょっとかいてあったから、私は昨日朝の御理解のですね、人に認められんでも神様に認められたいと言う昨日の御理解だったでしょうが、いわゆる、あー言う自然の雑草に似たような花がですね、それこそ、人に認められん認められるは別として、神様が認めておってくださればよいと言うので、あーしてどんな隅のやぶの中でも咲いておるんですよ、神様に認めてもらいたいのです、だから、私はそれを書かせて頂いておりましたからです、ね、そんなら佐田さんあんたが今日はそげんしておい出られたからもうあんたがた、そのすずめとこれと変えてやろうと言うてから私は変えました、そして私は佐田さんに申しました、これはバイリ先生のどんなに素晴らしい得意の絵でありましてもです、ね、あんた達が、他の者は知らんけど、ここにご縁を頂いておるならば、私が一筆、しかも御教えをそこに書かせていただいたこそ値打ちがあろうがのうと私は。ね、それはやり直しは聞かんけれども、なるほど、詫びれば許してやりたいのが親心と言う、そう言うものがすごく中に感じられました、そして、佐田さんが言われました、本当に信心は一本勝負ですなと、ね、一本勝負と言う事は非常にその日問題になったそうですけど、そう言う事なんですよ、もうやり直しはきかんでしょうが、だから、次にまた一本勝負を求められる時に間違いなく、いわゆる、真、真心を現していったらいいわけなんですよ。ね。
信心する人の真の信心なき事、本当に支えな事、けれどもね、そのような事柄の中に、ね、真の信心を頂いて行かなきゃならない、教祖様が腹立ちの後に笑われたりと、まあ教祖はすぐそうだった、ところが今度は佐田さんがひっかかりゃ、引っかかりだしなさってん、今度は佐田さんが見えたら今度は私自身が引っかかりだしたんです、それを聞かせて頂いたら、親先生が御結界でですね、で、そのお届けをした時に、親先生がいうならそっぽん向くようなふりをなさった、と言うから、これは私が大体そう言うのが好きだから、はぁーおしいとか私がもらいたいとかと言うな気持ちがあったんじゃなかろうかと厳密に考えてみた、さぁーどっこい今度は私のほうが引っかかりだした、そこには四、五人の人がおりましたから、気がついたでしょうけど、私はご神前に見えてもう長々と御祈念をした、そして、私が、その、思うたことなんです、ね、例えばちょっとお金ば払いに行っただけで、よか顔をした人たちだけがそんな色んな物ば頂いてきた、本当を言うたら勇さんとか大和さんとか久富繁雄さんとかその時、三日間もそのことにかかって御用をなさった人達こそが頂くなら頂くべきだと、しかも三枚も何枚も頂いていくんだからこれはあの人達にというごたる気持ちがないもんだろうかと私は感じた。ほんなこつを言うならあんた勇むさんやら大和さんやらバイリさんの後について一緒に本当に苦労せらっしゃった人たちが頂くべきだと私はこう夕べに思うた。あーそういうな方達自分の心に引っかかっておるなと思わせていただいたらね、昨日もってきたのが二枚だった、それから、先日、バイリ先生がみえた時にいつか、月次祭の御理解に申しました短冊の桜の絵をですね、だから、三枚頂いておるから、はぁーこれは三枚ば一人一人に上げたらいいと思うた、さぁー思うたら本当にそれこそすぐに笑われたびじゃかろうけれどもですね、もうすぐに笑いたいような、すきっとするものを頂いたんです。
あの、皆さん、信心をするならねこの辺が本当大事なところですよ、すきっりせんと言う事には欲がある時なんかが多いですから、ね、それで私は早速その梅雨ぶさとね、それからすずめの絵とそれから短冊の桜の絵とを、に書いてくじ引きを引いてもらったらね、まあ、参考までに申しましょう、すずめがね大和さん、梅雨ぶさが勇さん、桜が繁雄さん、もうそれぞれに、それこそ、大変な御理解をそれぞれに頂いてです、それをお配りすることになった、夕べあげたか、どうかしらんけど、まう事になったんです、ね。
私はね、信心する人の真の信心なき事と言うのはね、教え教えられる、おうた子にでも教えられる、こととがありますから、私共はね、本当にそれを御神誡としてです、神様がこのように厳しゅう信心する者は金輪際あっちゃならんぞと言うておられるけれども、ひょっとすると、ね、やはり、真を外して、やはり心の中に、心の中が引っかかりだしてくる、ね、心の中が引っかかりだしてくるといったようなことではもう真を欠いとる証拠ですから、ね、いわゆる、神様でも御霊様でも真心と言うものは一本勝負、やり直しはききませんと言う体験を佐田さんはもう本当に昨日ばっかりはされたことであろう、またご自分でもそう言うておられた、ね、そのことを通してです、いよいよ、明日は御霊様の、いわば、ご大祭、合楽に御親縁を頂いておるすべての、ご縁を頂いておる御霊様たちが、それこそ、もうどれほどあるか分からないほどに、言うなら、合楽の信心にすがり頼って、明日と言う明日は、もう本当に、なんと言うんでしょうかね、いろり、と言うんでしょうかね、もう天地の親神様に許されて、言うならば、まあ、仏教的に言うならば、地獄のそこで苦しんでおる御霊でも合楽の信心のお徳によって明日は晴れて遺族の者とどもとあげるような、言うなら、百里のおんじぎでもさせて頂けれるほどしのおかげを受けられる日なのです、明日は、ね。
ですから、私は今日ここに申しますように、神様でも御霊さまでも同じです、真心と言うのは一本勝負、後から後悔のないようなね、私は一つ明日こそ信心をさせて頂いて、ね、私共喜ばせて頂くなら御霊様も喜んで頂けれるようなお祭りを私じゃないお互いが皆で奉仕させて頂こうじゃないですか。
今日、信心する人の真の信心なきことを教祖様の、例え信心する者は真を欠いたようなことでも言いよったらそっぽを向かれるといったような、または、腹をたてられる事すらあったと、ね、丁度、今日頂きますところのそれこれ、あれを思い合わせてみてです、いかに信心するなら真の信心せんならん、真の信心せんならんと言う事じゃ駄目だと、ね、それはもう御神誡なんだから、もう信心するものは金輪際そう言う真を欠うようなことがあっちゃならんと言う事を戒めておられるのですから、ね、そこんところを間違いなくね、おかげを頂いて行かなければならんと思うんですよ。
信心する人の真の信心なき事と。 どうぞ。